79.父と月光、彗星、九九艦爆(インデクスに戻る)
 第2次大戦機の絵や模型を趣味としているのは私の父の影響も大きいので、父から生前聞いた話を当時の記録と照合しながらご紹介いたします。

父は大正15年2月生まれで、旧制中学卒業後、予科練に入隊している。父から予科練時代の話は一万メートル競走、棒倒しぐらいしか聞いた記憶がない。当時の海軍の教育課程では、予科練の2年の教育を受けた後、更に2年間実際の飛行機の搭乗訓練をする飛行錬習生になる。最初に操縦する飛行機が下の写真の「赤とんぼ」で霞ヶ浦上空を飛ぶ。練習機での訓練が終わると、各地の実戦基地に飛行練習生として配属される。飛錬時代は訓練飛行のみで、出撃はしない。訓練飛行であれば、彗星、月光、九九艦爆にも搭乗できたはずだ。その飛錬を繰り上げ卒業したのが昭和20年2月だと聞いている。

 従って昭和20年2月〜8月までが父「加藤久壽」の実戦配備期間だった。最初の赴任は飛練時代と同じ海軍「美保飛行場」(現在の米子空港)である。山陰の日本海に面した美保湾と湖の中海の間の狭い陸地に北を方位0度として70度方向、つまり東北東の方向に海に向かった滑走路がある。この飛行場は海軍当時から海に向かって離陸するルールだ。現在の米子空港、航路「ミホデパーチャー」も同じ70度方向である。この滑走路は陸側も中海に面しているので、戦闘機であれば陸側に向けての離陸は可能であったようだ。中海を抜けた所に山があり、実際雲が低い日に規則違反で中海方向に離陸して、そのまま5機が雲に隠れた山に激突した話を父から聞いている。
昭和20年当時「帝国海軍美保飛行場」に配備されて、父が搭乗した飛行機の機種は何であったか。父は私が幼い頃、当時流行のプラモの日本軍機を盛んに製作していた。当時操縦した機体を製作すると言っていた。初期の製作模型に「月光」「彗星」「雷電」がある。月光は斜銃搭載のB29迎撃機だ。彗星も斜銃搭載機が存在する、また雷電は海軍の迎撃戦闘機である。昭和20年3月頃から米軍はサイパン島からB29を出撃させ本土空襲を開始している。帝国海軍の西日本を代表する一大拠点の「美保飛行場」から父は本土防空に出撃したと考えられる。それは父が当時搭乗したとして製作したプラモの機種の用途と一致する。また当時帝国海軍にはB29の空襲を予知するレーダーは存在しない。つまり四国上空に飛来したB29の目視情報を受けて、米子から、軍需工場のある、広島から岡山方面に迎撃に出撃したとも考えられる。父の証言「敵機が来たといって飛び立っても広い空で見つけられる訳がない。たとえ見つけられたとしてもそれは爆弾を落としたあとだ。」つまり遠距離無線は当時電鍵によるモールスしかなく、無線電話は基地上空程度しか交信できない。米子から「広島方面に向けて発進」という命令を受けて飛び立っても、既にB29は爆弾を投下して身軽になった機体を高度1万メートルに上昇させ、月光、雷電、彗星の到達高度以上に上昇し、追撃も迎撃も不可能であったと推定される。父からは敵機との交戦の話は聞いていない。

 日本の都市空襲の記録を調査した
3.10・東京  3・12・名古屋  3.14・大阪  3.17・神戸  3.19・名古屋  4.14・東京  4.15・川崎 鶴見
5.14・名古屋  5.17・名古屋  5.24・東京南部  5.26・東京  5.29・横浜 6.1・大阪  6.5・神戸 6.15・大阪・尼崎
6.17−18・鹿児島、大牟田、浜松、四日市
6.19−20・豊橋、福岡、静岡
6.28−29・岡山、佐世保、門司、延岡
7.1−2・呉、熊本、宇部、下関・・・・・・・・・・・・・以後の地方都市へは省略

 本土防衛は陸軍航空隊担当で、海軍はその担当ではないことから、米子から防空に飛び立つのは主任務ではない。
上記の主要な空襲で、父の米子勤務から迎撃可能な都市は6月28日から29日にかけての岡山である。
深夜の空襲で月光以下外は夜間航法システムを持たないし、私の推定では6月28日には父はすでに九州に転属になっていたと考える。
岡山の空襲体験者の記録で、空襲後に1機のとんぼのような日本軍哨戒機(東海)が上空を飛行したと記載されていた。
その記述からも美保飛行場から編隊の迎撃機が飛び立ったとは思えない。ただ美保飛行場で迎撃の出撃より圧倒的に訓練飛行が多かったのではないか。
B29の迎撃に多く出撃していたのであれば未帰還になっていたのかもしれない。

 6月末を前にして父が転属の命令を受けたのは、「鹿屋飛行場」である。有名な知覧と並ぶ、海軍の特攻基地である。「美保飛行場」から「鹿屋飛行場」への転勤は列車組と飛行機組みの2種類があったそうだ、つまり移動人数分の飛行機はなかった、父は多くの航空兵が数日を要する汽車移動を希望する中、数時間で九州まで到着してしまう、飛行機移動を希望したようだ。何の機種で移動したのかは聞いていない。鹿屋飛行場で最初に整列する順番はそのまま「特攻順」になる可能性があった、右から順番に誰が並ぶかはくじ引きで決めたようだ。鹿屋では特攻を覚悟し、「なぜ自分が死ななければならないか」その正当性を自分の心のなかで構築することが葛藤だったと聞いている。正規の搭乗員教育を予科練で受けた父より先に、学徒で出征した速習過程の飛行訓練を受けた飛べるだけの学徒飛行兵から先に特攻に飛んでいかされた。8月15日までに、父の順番は来なかった。また当時「桜花」を吊下げ出撃する一式陸攻が母機ごと撃墜されるので、最後には一式陸攻に、爆弾を針金で落下しないように縛り付けて特攻出撃していった様である。(下図は銀河のプロペラ回転を利用して地上に降り立つ様子、絵は銀河だが月光でも同じ降り方が可能だ)

 「銀河、あれは優秀な飛行機だった。」の言葉は記憶に残っている。鹿屋基地から20年3月梓特別攻撃隊が銀河24機でウルシー環礁の米空母に特攻をした記録がある。3月末で鹿屋の飛行兵と機体は損耗が激しかった。先輩の航空兵が最新鋭の航続距離5000kmの双発、誉発動機の機体で800キロ爆弾を抱き飛んでいく姿を見送りながら、九九艦爆で訓練をしていたのか。「銀河」も父の作った模型にはあった。しかし銀河に搭乗出撃した話は聞いていない。当時銀河で遠く太平洋上の米艦隊攻撃に出撃し、帰還できたとは考えにくい。鹿屋基地では機材と飛行兵の消耗が激しく、仮定だが、山陰の美保飛行場から、飛行兵と、機材の補充として鹿屋に転属したと推定した。米子から、鹿屋まで一式陸攻に搭乗して鹿屋に着任した想定をしてみた。


   下表に昭和20年3月以降、帝国海軍鹿屋飛行場から特攻出撃した機種と、おおよその出撃機数を記した。

年月日 銀河 1式陸攻 零戦52型 零戦21型
20.3.11 24
20.3.21 20 10
20.4.1 2
20.4.2 4
20.4.3 6
20.4.6 18 29
20.4.7 9
20.4.11 13
20.4.12 5 13
20.4.14 7 6 3
20.4.16 4 14 12
20.4.29 10 9
20.5.4 5
20.5.11 3 12
20.5.14 19
20.5.25 3
20.6.22 4 7
20.6.24 4
20.8.13 2

 当初は4月の転属に伴い、米子から銀河を鹿屋までフェリーしたとも考えたが、鹿屋基地の特攻の機体を調査すると、銀河は3月11日のウルシー環礁攻撃が最初で最後である。ウルシー攻撃隊は南方から引き上げた経験豊かな航空兵である。従って3月11日以前でないと父が米子の銀河を鹿屋にフェリーした想定は成り立たない。
 3月21日は最初の一式陸攻+桜花隊で沖縄沖米艦隊にたどり着く前に20機が母機もろとも全滅している。21日の零戦52型は随伴機だが未帰還となった。3月に銀河と一式陸攻で相当数の搭乗員を失っているので父の鹿屋転属はその補充として4月と考えるのが普通だ。
  海軍の特攻では3月で、航続距離の長い銀河の機体と搭乗員を消耗しつくしている。
鹿屋基地からは4月以降の機種では一式陸攻と零戦の出撃が記録されている。
  父が4月以降鹿屋に着任すると想定した場合やはり、米子からの移動は人数も多く搭乗できる一式陸攻と考えるのが妥当だ。

 戦時中確かに父が搭乗した機体は「月光、彗星、(雷電)、九九艦爆は操縦したと話ていた、(銀河)」と仮説した。操縦者以外として一式陸攻には搭乗したと聞いた。双発機から地上に降りるのに、主翼上に出て、翼の発動機の水平になったプロペラに乗っかりそのまま体重でプロペラが下方に回転することを利用して地上に降り立つのがカッコイイ降り方だったそうだ。当初一式陸攻からこの降り方を想定したが、一式陸攻で主翼上面に降り立つのは、機体上部にある半球状の透明なハッチからでなければならない。それに大型双発機で、そのエンジンも大きく主翼上面に張り出しており、落下の危険も大きい。従って一式陸攻では「銀河降り」は難しいではないか。鹿屋の出撃記録から、4月以降父が銀河に確かに搭乗した確信がもてない。双発機から降り立つことが可能な機体で残るは「月光降り」しかない。それも鹿屋に月光があった記録がないので、美保飛行場でのことではないかと推定した。彗星への搭乗も美保飛行場での訓練であったのだろうか。4月以降の鹿屋飛行場では訓練飛行の余裕はなかったはずだ。
 左表は「特別攻撃隊の記録<海軍編>押尾一彦:光人社のデータを使用した。
「7月になると一ヶ月近く特攻出撃が全くなくなた時期があった。」これも父の言葉として記憶に残ることばである。

  子供心にわたしは父にゼロ戦には乗らなかったのか?と聞いた。「零戦だけには乗らなかった。」と言われた。雷電はカッコ付とした着陸速度が速く19歳の新米飛行兵に搭乗を許されたか、疑問であるのでカッコ付とした。雷電の模型は父が制作した記憶は確かにある。
それらの飛行機に対して思い入れは深く、小学生だった私も父の作る模型で飛行機の名前を覚えた。 父は1985年12月13日に59歳で帰天した。冥福を祈り、この世の我が生を受けられたことを父に感謝する。
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